ネイルアーティスト
「爪のお手入れしていい?」
しばらく静かに読書をしていた恋人が身を乗り出した。抱いていたピンクのハート型ビーズクッションが、前屈みになったせいで潰れている。
彼女が脈絡なく思いついたことを言ったり実行したりすることは珍しくないので、すぐに視線を本に戻した。
「何、突然」
珍しくはなくとも、何らかの反応を返してやらないと口を尖らせて拗ねることは長年の経験から知っている。こじらせればこちらから謝るまで全く口を利いてくれなくなるので、できるだけ呆れた口調にならないように注意して聞いた。
「これ」
きらきらと目を輝かせ、クッションを手放す代わりにこちらに示してくる雑誌の見開きページ。
ローティーンのモデルが、およそ家事などしたことがないと思われる整った手の甲を読者に向けてポーズを取っている。長方形の爪が、オレンジから黄色へ変化するグラデーションの色合いをしていた。しかもキラキラと星が散っている。
どうやら彼女はこの「ラブリー☆な女を目指せッ!マニキュア特集」に感化されたらしい。
「ちょうどお手入れセット持ってるんだ。やっていい?」
いいでしょ? と、否定の言葉など聴かされるとは思ってもいないような笑顔で聞いてくる。
本音を言えば、締め切った部屋の中でマニキュアは勘弁して欲しい。そういうのは換気ができる天気の日にやるべきだ。そう言うと、恐らく彼女は反抗するのだろう。「晴れの日は一緒にお出かけするんだから、こういうのやってる暇はないんだよ。雨の日だからできるの。今じゃないとできないのっ」こういうふうに。
「液こぼすなよ」
おっちょこちょいの彼女ならやりそうだから、一応釘を刺しておいて曖昧に許可を出す。
「そんなにしょっちゅう、ドジ踏まないもん」
唇を尖らせて軽くこちらを睨む彼女は、もちろん先日遊びに来たときに紅茶をこぼしていた。そのときも同じような台詞を言って、結果はお気に入りのワンピースをクリーニングに出す羽目になっている。信頼性は皆無だ。とはいえ問題はそこではなく、信用性がないとわかっていながら許してしまう自分の甘さにあるのかもしれないと思う。
バッグからテーブルの上に出された「爪のお手入れセット」は、ヤスリや透明な液体や色つきの液体、蝶々のシール、ビーズ類など、一体どうやっていれていたんだろうかと思わせる量だった。にわか雨が降れば折りたたみ傘が出てくるし、おなかがすけば菓子袋が出てくるし、強風に吹かれれば髪を整えるための「お手入れセット」が出てくるし、手持ち無沙汰になれば漫画や雑誌が出てくる。彼女のバッグの中は不思議が多い。
マニキュアの匂いが部屋に篭るだろうが、それさえ我慢すればしばらく彼女は大人しくしていてくれる。そう考え、手元の本に目を戻した。
テーブルの上に雑誌を広げる彼女の手が視界に入るが放っておく。道具は多そうだが、こちらの領域を侵してくるほど場所を取るわけではないだろう。文字を追っていると、彼女の細い手が頬杖をついていた左手に触れた。
「なに」
まだ何かあるのかと目を上げれば、にっこりと笑われる。
「手出して」
無邪気な笑顔はこれから何をするかを雄弁に物語っていて、少しだけ眉をひそめた。
「なんで俺の爪でやるんだ」
「お手入れしていいって言ったよ」
確かに言ったが、そういう意味ではなかった。
彼女は大きな瞳をきらきらさせて、捕まえた左手を見ている。
「私のよりも綺麗なんだもん。爪もほら、長い黄金形」
「……黄金律」
「そうそれ。マニキュアきっと似合うよ」
たとえ似合ったとしても、したいと思ったことはない。これまでも、これからも。呆れた目で見ると、気づいているのか気づいていないのか、目が合ってにこりと微笑む彼女。
「片手だけ。読書の邪魔はしないから、いいでしょ?」
これで首を横に振ったら、どういう反応をするか。経験上、彼女は簡単には引き下がらないだろう。駄々をこね、顔を真っ赤にして唇を尖らせ、下手をすれば泣き落としで対抗し始める。自分は貴重な時間を、彼女との戦いに費やさなければならない。そう思えば、片手の犠牲くらい軽いものではないか。
除光液で洗い流せば、マニキュアなどすぐに落ちる。その程度の悪戯に、時間を潰してまで抵抗する価値はない。結論付け、左手の力を抜いて誘導に従った。
「キレイにしてあげますからね〜」
心底楽しそうに、彼女は恋人の片手をお手入れする。
半ば所有権を放棄した片手から、くすぐったさを含めた感触が伝わる。文字を追いかけつつ、爪先からの微妙な振動が集中力を奪う。時折くすくす聞こえる彼女の笑い声が好奇心と羞恥心を誘い、それに対抗しようと頑なに読書に没頭しようとした。
マニキュアを塗られるときの、一瞬の冷たさ。馴染んでいく感触。手を取る彼女の指先、液を乾かそうと吹き付けられる吐息。
指は意外と敏感な場所だというのは知っていたが、こういう形で身をもって知ることになるとは。ちりちりと湧き上がる劣情に、振り回されるなと左半身を石に変える努力をする。
もしかしたら彼女は何もかもわかってやっているんじゃないだろうかと思い始めた頃には、読書よりも左手が気になっていて、全く本の内容が入らない状態だった。
「よし、できた」
満足そうな声に、やっと解放されるのかとほっとする。先ほどから一ページも捲られていない本から顔を上げ、彼女の方を振り向いた。
目の先にある光景に、息を呑んで。
愕然とする。
「おまえ」
掠れた声が喉をかすめ、慌てて唾を飲み込んだ。
彼女の笑顔が痛いくらいにまぶしい。
左手の爪は見事なまでにメイキングされていた。普段は不器用なのに、見よう見まねとは思えないくらいの芸術品と化した手。自分のものではないものに作り変えられてしまったんじゃないだろうか。女なら喜びそうな芸術的所業も、これが男の、それも自分の手だとわかればため息をつかざるを得ない。
だが問題はそこではない。
「じゃじゃぁん、すごいでしょ、おそろいだよ!」
左手の指に絡められた、彼女の右手。少し長く伸ばされた爪に、自分にしたのと同じデザインの芸術が乗っかっている。違うのは、グラデーションが自分とは反対の色目になっていること。手を繋げば、まるで寄せて引いた波のよう。爪先に散らされたビーズが泡のようにきらりと光っている。
自分の甘さを悔やむ。ただの悪戯だと放置していていいレベルではなかった。
「せっかくおそろいなんだから、しばらくこのままでいてね。手を繋いで歩いたら、きっとキレイだよー」
予想していた台詞には、呆れのため息しか出ない。
「除光液は?」
「残念でした。今日は持ってません」
「おまえ」
俺がこういうのいやだってこと、絶対わかって楽しんでるだろう。
聞くまでもない。彼女のまぶしいばかりに輝く笑顔が証明している。
再度息を吐いて、渋々本にしおりを挟んだ。
「わかった。わかりました。相手してやるから」
何のことはない。彼女は一向に構ってくれない恋人に、ご機嫌ななめだったのだ。でなければ、こんな悪戯はしない。
「ほんとう? 私のことなんて放っておいて、本を読んでていいんだよ? 私はこうやって、一人で遊んでるんだから」
繋いだままの手に、頬をすり寄せて少しだけ拗ねた声で呟く。これ以上の悪戯は勘弁してもらいたい。指先から昇ってくる劣情を掴もうと、左手に力を込めた。
「せっかくおそろいなんだから、一人でなんてもったいない」
引き寄せた彼女からは、マニキュア独特の匂いがする。
「二人で遊ぼう」
左手と同じように、右手も繋げてしまう。逃げられないように。そうしたら次は、唇を塞ぐ。口答えをしないように。
篭っていた液体の匂いが、甘いものに変わった。
全く勘弁してほしい――愛しい悪戯。